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カンヌ国際映画祭で上映された「秋刀魚の味」④ 小津安二郎監督の人生を辿って… [映画]

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皆さん、こんばんは。
今日一日お疲れ様です。

さあ、それでは、早速、

トーマス・H・インス監督の
「Civilization」(シヴィリゼーション)に出会った
小津少年のその後をお届けしましょう。


「Civilization」に出会った頃の小津少年…。
小津少年は、絵が上手で、
当時の最新カメラであった、ベス単やブローニーを操るといった
少年だったのだと。

なんか、想像すると、すごいですね。


芸術家肌の少年って感じでしょうか…。
その後、詳細はわかりませんが、
(当時の)高校進学を控えた中学5年の夏、
小津さんは、問題行動を起こしたとみなされ、
退寮処分となってます。

以降、自宅からの通学となりました。

1921年(大正10年)、
神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験しています。

商業の道に進んでほしいという両親の期待に応えてのことでした。

結果は、落第。

翌年の1922年(大正11年)には、
三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験。

結果は、またも落第。

そこで、両親は思った。
「二浪するよりは、まっとうな仕事についてほしい」と。

そして、小津さんは、
三重県飯南郡(現在の松坂市飯高町)にある
宮前尋常高等小学校の代用教員として赴任。

小津さんは、当時、
山村の子供達に、強烈なインパクトを残したようです。

ここで、ひとこと…。
…まあ、そりゃそうだろうな~と、私も、思います。(笑)

小津さんの教え子の、柳瀬才治さんという方は、
「当時としては新しかったローマ字を教えてくれたり、
マンドリンを弾いたりして忘れられない先生だった」と、
当時のことを振り返られています。

ちなみに、私は、この柳瀬才治さんという方自体も
すごい方だな~と、びっくりしてしまいました。

あんまりにも、驚いたものですから、
いったん、話をとめて、
この柳瀬才治さんについて、
皆さんにも、ご紹介させてください。

…といのは、小津さんの教員生活というのは、
結果的には、わずか1年だったわけです。

でも、たった1年という時間でありながら、
この柳瀬才治さんという方は、
本当に、小津さんから、目には見えなくても
大切な何かを、受け取ったのでしょうか…。

その後、この方は、宮前小学校を卒業後、教員となられ、
母校である宮前小学校の校長を最後に退職。
退職後は、花岡神社の宮司となっていらっしゃり。

そして、柳瀬さんは、小津さんに関することを、
健在である、自分以外の教え子たちから聞き取り調査をされ、
2冊の本にまとめられているのです。

また、小津さんの碑を、生誕100年を記念して、
柳瀬さんを中心に、当時の教え子やそのご家族からの寄付で、
建てたというのです。

何なんでしょうか?

見えない、絆のネットワークというか…
志の連帯のようなものを、感じませんか?

それでは、今晩はここまでに致しましょう。

皆様、ここまでお読み下さり、
ありがとうございました。

明日は、
結果的に教員を一年でやめた小津さんのその後…からです。

お楽しみに。

おやすみなさい…。
明日お会いしましょう。

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