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カンヌ国際映画祭で上映された「秋刀魚の味」⑤ 小津安二郎監督の人生を辿って… [映画]

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皆さん、こんばんは。
今日一日お疲れ様です。

さてさて、代用教員の小津さん、その後、
どうなったのでしょうか?

皆さん、知りたいですか?

はい、それでは、続きを、お届けしましょう。(笑)


子供達には慕われた小津さんでしたが、
映画への愛着が捨てられず、
一年で教員を辞め、
(東京に戻っていた)家族の元へ戻ります。
小津さんのお父様は、
最初は、映画の仕事をしたいという息子の希望を、
受け付けなかったものの、
最終的には、認めたのだと。

小津さんの叔父さんが、
松竹キネマに地所を貸していたというご縁から、
小津さんは、蒲田撮影所に入社となったご様子。

1923年(大正12年)の夏のことでした。

創設3年目の松竹キネマで、
小津さんは、撮影助手の仕事を得て、
月給30円だったそう。

う~ん…。
これって、今では、いくら位の額に相当するんでしょうか?

ちなみに、その直後の9月に、
関東大震災が発生。

松竹キネマは、非常事態に対処すべく、
話し合いにより、
その後の蒲田撮影所の方向性は、
現代劇映画をメインにしていくことになった。

そして、
1924年(大正13年)12月には、
小津さんは、当時の徴兵制度に従って、
一年志願兵として入隊し、
一年後の1925年(大正14年)12月に除隊。

職場に復帰した小津さんは、
助監督として、大久保忠素監督のもとにつき、
現場で映画制作のノウハウを体得しながら、
監督として必須の作業とされるシナリオ執筆に励まれる。

そして、その内の一本が、蒲田撮影所の臨時所長の
城戸四郎(きどしろう)さんの目にとまった。

「瓦版カチカチ山」(かわらばんカチカチやま)であった。

これは、映画化にはならなかったものの、
1925年(大正14年)8月、
「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」との辞令で
小津さん、念願の監督昇進~。

パチパチパチパチ~。(拍手の音です。)
おめでとうございま~す。

小津さん、うれしかったでしょうね~。

で・も…、ちと、ここで、素朴なぎも~んです。

小津さん、本当のところ、
どんなお気持ちだったのでしょうか?

監督に昇進したことで、
小津さんは、初監督作の「懺悔の刃」をクランクイン。
なが~い、小津さんの監督歴の中では、
振り返り見れば、これは、唯一の時代劇の作品。

小津さんは、スケジュールの調整から、セット作り、
俳優の演技指導と…
忙しいながらも、充実した日々を過ごされたことでしょう。

けれども、完成の直前に、
思いもかけないことが起こる。

予備役招集がかかったのです。

そして、後を、斉藤寅次郎さんに託し、入隊。
ちなみに、この作品は、
1927年(昭和2年)10月公開とりました。

小津さんは、この作品について、後に、
「自分の作品のような気がしない」と語ったようですが、

それって、
ちゃんと最後まで自分が作品の完成まで関われなかったということから、
なんとなく中途半端な感じで…そう感じられたのか…

はたまた、「時代劇」だったからなのでしょうか???

私、個人的には…ですね…
なんとなく、単純に、
小津さんに、時代劇っていうのが、
そもそも、イメージできないって感じです。(笑)

それでは、今晩は、ここまでに致しましょう。

皆さん、ここまでお読み下さり、
ありがとうございました。

明日は、小津さんの戦場生活の時期について、
お届けしますね。

ご一緒に、引き続き、小津さんの足跡を、
辿って参りましょう。

明日お会いしましょう。

皆さん、おやすみなさい。

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