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カンヌ国際映画祭で上映された「秋刀魚の味」⑥ 小津安二郎監督の人生を辿って… [映画]

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皆さん、こんばんは。
今日一日お疲れ様です。

さて、昨晩は…
1925年(昭和14年)に、
小津さんが、初監督作「懺悔の刃」の完成直前で
予備役招集がかかり、斉藤さんに後を託し、
入隊。

ここまで、お伝えしたんでしたね…。

では、今晩は…ですね…
小津さんの、その後の歩みも、
いろいろおありだったわけですが、

そうした中で、
私は、ある時期の、小津さんについて、
是非、皆さんに、
お届けさせて頂きたい、と思いました。
それは、
1943年(昭和18)年に始まります。

この年の6月、小津さんは、日本を離れ、
シンガポールへと向かった。
この年の12月12日に、40歳を迎えようとしていた。

小津さんは、1927年(昭和2年)の
処女作「懺悔の刃(ざんげのやいば)」以来、
15年、監督生活を送ってはいたものの、

前々年の1941年(昭和16年)の「戸田家の兄妹」と、
前年1942年(昭和17年)の「父ありき」によって、
初めて、お客の呼べる監督になったばかりのところだった。

松竹は、そうした小津さんに、戦争映画の撮影の依頼をする。

と、ここで少しばかり、説明を…。
いったん、時間を巻き戻し…
1937年(昭和12年)に戻ります。

この年、小津さんは、
トーキー第2作「淑女は何を忘れたか」を完成。
戦争の前兆のような時代であった。

7月7日に盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が勃発。
ここから、日本は、中国との泥沼の戦いに没入していくことになった。

8月。
親友の山中貞夫監督に召集がかかる。

このことで、小津さんは、すぐそこに、
戦争が迫っていると感じ取ったという。

9月。
小津さんに召集。
9月24日に、大阪から出向し、中国戦線へと向かった。

小津さんは、指宿三郎(いぶすきさぶろう)少佐率いる
第2中隊に属する第3小隊で、
班長をつとめた。

小津さんの部隊は、
南京総攻撃(12月10日~13日)には間に合わず、
陥落後の南京を越え、奥地へと進軍。

1938年(昭和13年)1月12日、
南京郊外で、先の、親友の山中さんと再会。

お互いの思いは、
どれほどのものだったことでしょうか…。

しかしながら、山中さんは、同年9月に、
急性腸炎を発症し、野戦病院にて息をひきとる。


と、今日は、ここまでにしておきましょう。

皆さん、ここまでお読み下さり、
ありがとうございました。


この時代に、戦争で亡くなられた、すべての人々と、
また、そのご家族の、ご冥福をお祈り致します。

明日は、戦場での小津さんのその後からです。


おやすみなさい。

明日お会いしましょう。

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