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カンヌ国際映画祭で上映された「秋刀魚の味」⑧ 小津安二郎監督の人生を辿って… [映画]

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皆さん、こんばんは。
今日一日、お疲れ様です。

さあ、それでは、早速、
「彼氏南京へ行く」の映画化を断念した、
小津さんのその後を、
皆さんと一緒に、たどってみましょう。


小津さんは、その後も、めげることなく、
1941年(昭和16年)に、「戸田家の兄妹」、
そして、「父ありき」が1942年4月に公開。

この「父ありき」の制作中に、日米が開戦。

そして、
1943年(昭和18年)6月、
小津さんは、シンガポールへと向かった。

シンガポールでの小津さんの肩書は、
陸軍報道部映画班所属の軍属。

小津さんは、松竹が軍に託されたビルマ作戦の映画化
「ビルマ作戦 遥かなり父母の国」にあたった。
しかし、完成しなかった。

戦意高揚を目指す映画にはとうていなりそうものないものだった。

「遥かなり父母の国」との題名から、かもし出されて来るように、
兵士たちが、
ひたすら行進し、
故郷を思う。

派手な戦闘場面等も、含まれてはいなかったよう。

小津さんは、特に、軍部に反抗しようと思ったわけでもなく、
松竹は軍への協力をするという立ち位置、
一方で、もともと松竹はホームドラマを中心としているという特質、

こうした状況の中で、
ご自分なりの義務を果たそうとされたのではないでしょうか。


小津さんがシンガポールに着いたとき、
戦争の状況は悪化しており、映画を撮りようもなかった。

1943年(昭和18年)6月、
アッツ島守備隊の玉砕直後のことで、
太平洋の制海権は、アメリカ軍に、既に移っていた。

小津さんに続き、
シンガポールに向かおうとしていたスタッフの一行の乗っていた船が、
米軍の攻撃を受け、
一行は、フィリピンに避難し、かろうじて、九死に一生を得た。

それでも、彼らは、危険と隣り合わせの中、
シンガポールにたどりつく。

が、小津さんは、
撮影は不可能だと、察知した様子。

この時、カメラマンに依頼し、
「撮影中止」の電報を打っていたのです。

けれども、民間人の通信は、後回し。
更には、開封されてしまい、
結果、スタッフらの、乗船に、間に合わず。

これを知った小津さんは、
激怒したという。

小津さんという人物は、
撮影中でも、まったにどなるようなことがなかったとのこと。

そのような方が、
目を真っ赤にして怒ったという…、
カメラマン:原田雄春さんによる回想からしても、

小津さんの心中(しんちゅう)は、
いかほどだったろうか…と、
言葉になりません。



こうして、小津組のスタッフ一行は、
シンガポールに集まったものの、
何も映画は撮れず、過ごすことになる。

小津さんは、自分の仕事である撮影自体ができないまま、
2年間を、シンガポールで過ごすこととなった。

そして、
私が、最も、注目したのは、ここからです。

こうした、空白となってしまったかのような時間に、
小津さんは、最初の一年で百本のアメリカ映画を見た、
というのです。


と、このことを、是非、詳しく、
皆さんに、お届けしたいのですが…
お楽しみは、明日に取っておきましょう。(笑)

皆様、ここまでお読み下さり、
ありがとうございました。

明日は、もちろん、この…
シンガポールでのミラクル小津って感じな
ご様子お届けします。

お楽しみに。

それでは、皆さん、おやすみなさい…。

明日、お会いしましょう。

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